赤い蝋燭と人魚

annon2007-12-27

小川未明:文 酒井駒子:絵
赤い蝋燭と人魚

昨日の東京、紀伊国屋書店の絵本コーナーで衝動買いしました。深く沈んだ赤の表装とかすれた黒が印象的な酒井駒子さんの絵。これに惹かれないワケがない。

お話じたいは、とても古い物。大正時代に発刊されたものに、駒子さんが挿し絵を描くことでリニューアル。かな文字など、現代人にも読みやすいように表現が変えられているのですが、丁寧に丁寧に語られている悲しい物語は、一切の救いようがない。
寂しい冬の海。せめて我が子だけでも人のぬくもりに触れながら、暖かい世界で過ごして貰いたいと願う母人魚。
つつましくも、神に感謝しつつ暮らしている老夫婦。
そして、老夫婦に育てられた人魚の子。
客観的に見れば、それは幸せな家族団らんの場に見えたでしょう。
きっと母人魚も、その風景に安堵したでしょう。

ただ、文の中で、人魚の子に注がれた愛情の描写がありません。

その生活は…見せかけなのか。ただ単に、「神の授かりもの」というだけの存在だったのか。
語られないもどかしさ。
それぞれの思惑の空回り。感情の掛け違いがやがて村全体を巻き込んだ大きな悲劇になっていきます。

せめて、人魚の子が、自分自身で振り返る幼少の頃が、幸せだったと思っていて欲しい。
それが、掛け違いの愛情だったとしても…。

そして、人魚の子のその後、村の悲惨な状況も語られません。ただ、結果としての事実があるだけ。どれだけの苦痛があったのか、なかったのか。
せめて、幸せであったと。ただ思わずにはいられません。

駒子さんの絵。ちりばめられた黒には、単純な不安という感覚と、羊水の中にいるような暖かさ、安堵感が同居しています。
その怖さと優しさの黒が、心に突き刺さって暖かい気持ちになります。

人魚の子に、「あなたに注がれた愛情は本物だったんだよ。あれは一時の気の迷いだったんだよ」と語りかけてあげたい。ほんとうに、できることならそうしてあげたい。
何か、心に引っかかったままになっている、そんな絵本でした。