水戸芸術館現代美術ギャラリー

入り口前

夏への扉マイクロポップの時代」展
2007年2月3日(土)〜 5月6日(日)

オープニングトークマイクロポップとは何か」
講師:松井みどり美術評論家
2007年2月3日(土)

美術館サイト http://www.arttowermito.or.jp/atm-j.html

はい、前の日記でぼそっと書いてましたが、今回は水戸です。マイクロポップの時代展。なにはともあれ、奈良美智さんと、タカノ綾さん、國方真秀未さんという、ある意味サブカル的な「かわいい系」の絵が一度に見られるという絶好の機会。これを逃すわけには行きません!
と、いいながらも、今回タイトルにもなっている「マイクロポップ」。これを企画者自らが解説してくれるというオープニングトークにも期待が高まります。今回集められた作者さん達の共通点、カテゴリとしてのマイクロポップという単語に強く引かれます。

今回は、このマイクロポップという概念を、私なりに書いていきたいと思っています。オープニングトークでメモは取っていましたが、松井みどりさん本人から出た言葉なのか、私自身の感想なのかあやふやになっている部分があり、一応、私の感想としてのマイクロポップを書いていこうかと思っています。

会場で渡されたパンフレット2枚と、受付で貰える解説書。これにマイクロポップの概念が書いてあるのですが、そもそも精神的な分析によるカテゴリ分けを、文字で現しても読み説けない部分が多い感じですね。

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マイクロポップ。それは現代美術の中で、60年後半から70年代のアーティスト達が持つ、既存の芸術が持つ見方の転換点。それを整理する事により、理解を深めようとする方法論。

比較的若い世代のアーティスト達が持つ、作品への取り組みの中にあるのが、「断片を集め組み替える」技術と、それらを「再利用」する技術。

それらは、一般の世の中から見れば、時代遅れで、忘れ去られた。今となっては何の使い道も無いと思われている物。

それらを既存の使い方以外の方法で、再構築させる。

ざっくりというなら、偉い人が「この使い方が正解。みな、このように使ってください」という使い方をしない。つまり本来の使い方以外の「ハズし技」
その「ハズし技」を利用し、それらを寄り集め、再利用することによって生み出されるアート的作品…こんなもんでいいのかな?

たとえば子供が、取扱説明書を読まずに、奇想天外な使い方を実践するように。
たとえば、英語の読めない人が、英語のマニュアルをひっくり返して不思議な使い方をするように。

それは、大きな「社会」が押しつける多数派の方法論ではなく、個人個人がそれぞれの使い勝手を優先し、多に囚われない、その人独自の使い方を発信するための手段。

それは今回の展示内容にも大きく反映されています。ドローイングという、紙とペンだけで、その時の心情を書き殴るように生み出す方法。これらは、芸術家でなくても、普通の人が紙とペンで生み出せるでしょう。

キャンバスに描かれながらも、マンガ的なキャラクター性、コマ割りによる強制的なストーリーの提示は、マンガ家にあこがれた人なら、原稿用紙に描いたこともあるでしょう。

普段は見向きもされない風景の写真。それは、カメラさえあれば、被写体はゴロゴロしているでしょう。

それらは、芸術作品は芸術家しか作れないという、今までの概念を打ち壊す。ある意味普通の人。もしくは立場の弱い人にも生み出せる方法を示しています。

一般人の小さな視点(マイクロ)と、独学で身につけた、正式な物ではない方法論(ポピュラー=ポップ)それが、マイクロポップ

それは、時代に適応する知性の形。でも、無から始まるのではなく、その場にある既存のものを見直して、作り直して生み出していく。

松井さんは言います。
今回の展覧会は完成品を見る場ではない。
断片の組み合わせでしかない(たとえばドローイング作品は、ある意味落書きの組み合わせか?)作品は、それそのものが、作品を生み出すプロセスの一つだと。
そしてそれは、誰にでも出来る方法論だと。
ぜひ、この展覧会で、連想や発想のプロセスを持ち帰って欲しい。ここを、「知性の訓練場」として活用して欲しいと。

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とはいえ、果たしてこれは、現代美術というくくりを与えてまで、「美術」としてのカテゴリに縛り付ける必要があるのか…そんな風にも思います。

正直…正直いって、ドローイングの描き方や、コマ割りによるマンガ的表現は、普通にイラストやマンガで見られる物と何が違うのか。

会場をふらふら見ながら、タカノ綾さんの絵を見ながら、中性的な、男女の区別のないキャラワークとか見ていて、マンガ家のタカハシマコさんと何が違うのか。
國方真秀未さんの絵を見ながら、混沌としたコマ割りの構成を見ていて、マンガ家の植芝理一さんと何が違うのか。
そんな、うがった見方ばかりしてしまいます。(体調悪いのかしら?(笑))
その時の自分は、「ああ、キャンバスに描いているから現代美術で、マンガ原稿用紙に描くと、マンガなのかな」とか思っていました。

完成品とは思えない雑多な作品は、普通の人が作品を生み出すためのアイデアの宝庫として見るなら貴重な場ですが、そうでなければ…すこし退屈な感じもします。

そんな中で、去年の弘前から再び出会えた、奈良美智さんの作品。目をつむった女の子が、きらきらと光る星の瞬きの中で、目を閉じてたたずんでいる絵。これにまた出会えたのが単純に嬉しかったです。
今回の作者さん達の中では、世代が上の奈良さん。(松井みどりさんも、他の若いアーティストさん達にとって、お兄さんのような存在って言ってました。)
世代が上の分、生み出した作品の数が違う。そして、心情の変化と共に変わっていく絵が、ただの「新作」という存在を越えた、歴史を語り出します。
芸術は、作品の表層やテクニックだけではなく、生み出した人の生き方、存在そのものなんだなあと思いました。
まあ、うがった見方ばかりの私は、マンガ家の玖保キリコさんと何が違うのか〜なんて考えたりもしたんですが…奈良さんの最近の絵は、現代美術というカテゴリを越えた存在感を持っていますね。

まあ、私が好きなだけなのかも知れませんが(笑)


そんなこんなで、もしこちらの展覧会に来られるなら、何かノートとペンなんかを持って来てみましょう。
展示された「断片」達を見て、それを自分なりに「再利用」する。ぜひ、何かを生み出すために、見に来て欲しいですね。

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さて、美術館の中で、恒例のパンフあさりをしていたら、近場でも面白い展示をしているようです。

菊池サナヱ展「球体関節人形」−春朧古色雛とともに−

常陽史料館アートスポット
2007年1月26日(金)〜 3月25日(日)
会場サイト http://www.joyogeibun.or.jp/siryokan/
芸術館の中でパンフレットを見つけたので、こっちにも寄ってみました。
水戸市在住の人形作家・菊池サナヱさん制作の球体人形。西洋的な印象が強い球体関節人形ですが、菊池さんの作品は、どことなく日本的。日本人形に、西洋の服を着せたような雰囲気です。独特な関節の艶めかしさはあまりなく、和人形的な顔立ちだけが目にとまります。
受付の人に、「写真良いですか〜」と聞いたら、作者さんの意向で禁止のこと。残念ながら中の写真は無しです〜。